試合翌日のオフの一日を利用して兄ちゃん家族と三重県の伊勢神宮に行ってきた。
昔ながらの街並みで伊勢の魅力が凝縮されたおはらい町通りとおかげ横丁で立ち盛り食い。
五十鈴川にかかる宇治橋を渡り大木に囲まれた長い砂利道で姪っ子と戯れいよいよ内宮へ。

お祈りすることはただ一つ。

「次の試合は勝てますように」のはずだった。
賽銭を投げ入れ拍手2回、静かに目を閉じて手を合わせるところまでは……。

最近、ずっと勝ちにこだわってきた。

これほど勝ち負けについて考えたことが今まであったのか、という程に。
世の中で「勝つ」ということが常に善であり、正であるとは限らないと思うけれど、
実際そうでない場合の方が多く、勝ちor負けの二つでしか価値判断を下さない人も多い。

特にプロとしてお客さんの前でプレーする僕たちのような職業においては。

この不景気にお金を払って観戦に来てくれるのだから当然の話だと思う。

口では「そんなもんじゃない!」という人ですらやはりどこかで勝ち負けにこだわる。

そもそもこんなことを書いている僕も思いっきりこだわっているからこそ、
「勝ち」とか「負け」とかいう言葉を何度もここに羅列してしまっているのだろう。

人々は一般的に勝者を賞賛し、敗者を哀れむ。

ただ、それでも<負け=みっともない、恥>というところまでには断じてならない。

それなのに神宮で僕がしようとしていた行為は何だかそれに近いモノのような気がした。

だからこそあのとき瞬時にお願いするはずだった内容を無意識に変えたのかもしれない。
ただ単に、清々しく重厚な伊勢神宮という神聖な場にやって来てまで、
己の身勝手な欲望を祈願しようとする自分に嫌気が差しただけなのかもしれないけれど。

「結果」

それは他から見たものであり、まだ自分の中の目で見たものではなかった。
そんな心の不純物をあの場で捨て去ることができたとき、少し楽な心持になることができた。
僕にとって最も恥ずかしいことは、自分の中から見てみっともなく、見苦しいこと。
そしてそんな自分にしばられてしまうこと。

確かにもう負けられないという緊張感は伴う。毎晩バスケのことばかりが夢にも出てくる。

しかし、たとえどんな結果であろうとも何かに縛られることなく、顔を上げ、
楽しみながら歩みを進めることの大事さに開幕から一回り経とうかという今頃気付いた。
森に囲まれた伊勢神宮の内宮で。

実際にお祈りしたことは「笑顔でシーズンが過ごせますように」。

みんなでもっと笑っていこう。

やれやれ…。

こんな重苦しい文章はやっぱり書きたくないものです。
なんだか疲れが一気に吹き出してきたみたいなのでそろそろベッドにダイブします。

明日からも崖っぷちのつもりで練習頑張るだけです。

そして今週末は絶対勝ちます!